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一考 | 数年後の君に

 消費資本主義社会の主要な規範のひとつを「自分は自分、人は人」との命題でとらえている、とは芹沢さんの弁だが、ごく最近社会に浸透してきたその規範を子供の偏食に当て嵌めるとどういうことになるのか。というのも、偏食の是非を子供と論じようとするに、「仕方がない」との些かの遠慮と「大きなお世話ではないか」との傲慢が綯い交ぜになった応答を得るケースが多いからである。この場合、前者には「自分は自分、人は人」との命題に則った個人という観点が垣間見られるのに対して、後者では食事を用意する個としての親の存在が等閑視されている。
 親が食卓をしつらえるのは善意であり、そこには間違いなく親としての務めも重なり合っている。しかるに、敢えて「個としての」と強調するのはその行為を一方通行の善意と解釈したいからであって、義務とか権利とかの文言を用いたくないからである。その理由は、親子間の義務や権利について述べ立てるには私はあまりにも個人主義的であり、失格者でしかないことを十二分に諒解しているからである。身内であろうが他人であろうが、生活を共に営まないかぎり言葉の共有はかなわず、いわんや信拠を共にする等不可能事であろう、と言って沈黙してしまえば日和見の謗りをまぬがれない。
 私の発言が常に日和見を排し、断定的物言いに終始するのは、まずなによりも私自身が暫定的な存在でしかないからである。それぞれの情況に応じてその場で即断された個人的見解しか私には持ち得ないし、その見解にしてからが目まぐるしく流転するのである。通常、親は子の成長や発育をうかがうばかりで意志的実践的参加が試みられることはほとんどない。体よく申せば「子が気付き、目覚めるのを悠長に待つ」と言うことになるのだが、かような関わり合いを拱手傍観と難ずるのは私があまりにも親として稚拙であり、かつ性急だからなのであろうか。
 繰り返すが、自らが犠牲にするであろう時間と分限に応じてしなければならないこととの狭間で強いられる拘束、もしくは自己の好悪にかかわりなくなすべき道徳的強制を甘んじて受け容れられるほど私は公平にして無私な人間ではない。言い換えれば、能動としての愛にはかねてより甚く欠乏を感じているのである。愛おしく思う、恋をする、岡惚れする、いかような文言であっても結構、要は人を愛する心を持ち合わせていないのである。前述した拘束や強制としての愛なら理解可能だが、それすらが私にあっては任意規定であり、時を超えた愛を信じるほどお人好しには出来上がっていない。と言うよりは、人との信義を重んじるが故に私はいまなお愛や情を諾うことが出来ずにいると言うのが正直な意見である。対象が親であれ、兄弟であれ、友であれ、連れ添いであれ、わが子であれ、事情は同じである。
 次に、義務と権利とが入り組む絡繰りは必ずや不実である。なぜなら、義務と権利とは表裏一体にあり、義務を果たせば自動的に権利が生じるのである。むしろ権利を派生させたいがため、一家言を留保させたいがために義務を果たすと言う方が消息は明解になる。もっとも私の場合、その消息の目的は説諭ではない。親と子ではなく、個と個の遣る瀬無いひとときの逢瀬、行く末、異とする精神の目合をはかることがかなえばとの切ない願いからに他ならない。
 しかるに、その賦与されたところのものを子が辞み、また親の善意を善意として受け容れられないのであれば、他所で勝手に食するしかなくなる。結果としての自立は極論だが、一食の拒否の繰り返しの中で、コミュニティーとしての食卓すなわち個人を吸収する場は存在が薄らいで行き、集団や類型を拒否する個人としての自覚が生まれてくる。言い換えれば、家庭の崩壊、親の子離れ子の親離れが加速されて行くのである。本当はそれこそが私の望むところなのだが。
 思うに、他の哺乳類と比して人が自立に至る期間はあまりにも長い、長すぎるのである。15年もしくは20年もの間、子の食事のために子育てのために費やされる時間、前述した拘束、道徳的強制を想像しただけで、気の弱い私は心臓麻痺を起こしかねないのである。
 もっとも、かような社会学的なものの考え方を私は好まない。私が言いたいのは、個の権利を弁解に用いる子供の不遜にして低劣な態度とその整合性のなさが鼻持ちならないのである。もう一度最初に戻って「自分は自分、人は人」を「子は子、親は親」に置き換えてみると話の通りがよろしくなる。子が個人を標榜しはじめた時、その個を尊ぶのであれば、親と子は対等の存在になるしかない。子供がもらったお年玉を親がピンハネし、生活費に流用すれば子供が怒るように、存在の対等を謳うのであれば子が親を搾取するのも許されることではない。自らの存在を相手に委ねているあいだはよろしいが、そうでなければ当然の帰結として自己責任が生じる。人と人とのかかわりにおいて、責任とは金銭の独立を意味する。
 偏食自体は取るに足らぬえり好みの一種である。酒を嗜むようになればあらぬ肴に惹かれ、また歳とともに嗜好そのものも変化して行く。私が問題にしているのは、自らの偏食になんら疑問を抱かないのは好奇心の欠如ではないかという点である。より強靱な個を得るには有りとある文化の異相に身を曝すしかなく、その機会を自ら閉ざすのが個の自覚の抛棄でなければなんなのか。偏食児童もまた個人という観点が欠如した存在なのではないか。
 金銭に贈与はあっても、精神に贈与との観念はそぐわない。さればこそ、大人の立ち居振る舞いから何かを推し量るしか子に手立てはない。何時の日か一人で生きて行くために、自らを問い質し、自らに疑問符を突きつけ、懐疑の渦中に暫定的存在としての個を打ち立てなければならない。尊厳と欺瞞との間を行きつ戻りつし、自らへの不実と相対するしか生き延びる術はない。世に絶対との概念はなく、自分も他者も立ち位置も価値観もすべては儚くうつろなもの、やがて訪れるであろう消滅の日まで君はいかように抗って生きるのかしら。



投稿者: 一考    日時: 2002年08月22日 13:42 | 固定ページリンク





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