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二階堂奥歯 | 今日の道行きあるいはパラフレーズ(とりあえずそぞろ歩き篇)


一考さま

一考さんの思想を記す当て馬に使われているだけのような気がしますが、それでも光栄です。ありがとうござ
います。


     不在するために
     いつでも
     あなたはゆらゆらしている
     その揺れはばを
     はかりきることができなくて
     わたしは膝をかかえこむ
     (金子千佳『遅刻者』思潮社)

いや、かかえこむつもりはありません。


私が哲学科を出たということ、一考さんが出ていないということ。
当然ながらそんなことは思惟にとって何事でもありません。
哲学科で学ぶのは哲学史だけ。今ここにたち現れている思考に、数千年の哲学史など薬にもなりません。
「人が考えたから考えなくて済む」をいうわけにはいかない領域こそが哲学であり文学ではないでしょ
うか。

私が用語にこだわるのは単に思考に不可欠だと思うからです。哲学用語が邪魔になるなら捨てても結構。
私と一考さんで新たに言葉を創ればよいことです。
ただ私は、一考さんが、そして私が、ある言葉で何を指しているのかをはっきりさせたいだけなのです。
バベルの塔を建てるための言葉の煉瓦があやふやでは困るのです。

言葉はアリアドネの糸です。思考の軌跡を残しておかなければ同じところをそれと気づかぬまま何度も
ぐるぐるまわるだけにもなりかねません。
糸がなければ迷宮を進むことは出来ない。
そしてまた同時に、確かに糸は先には伸びていないのです。
言葉は常に後付けで、進む先からは遅れている。しかし、思考の道行きに携えていくにはそれしかない
ではありませんか。

なるほど、恋人と一対になることでさえ帰属である。それから逃れたならば次に向かうのは自分自身に
なるでしょう。
自己にすら帰属しないこと。
一考さんがアイデンティティーという言葉を忌み嫌うのは当然です。
アイデンティティーを保つとは自己に帰属することに他ならないのですから。

「二階堂奥歯なる私」など社会的な約束事に過ぎず、「思考者」(いや、「者」が邪魔ならいっそ「思
考」でも「思惟」でも)は無名です。
名前、自己同一性、そんな重いものを引きずっていたらどこにも行けません。言葉を軌跡としてただ飛
べばよいのです。

自己同一性を求めないなら、この矛盾をそのままにしておける。
一考さんが見つけたこの方途。
そして至ったフラットな世界が「すべては同じ」だと言えるものならば、その世界は私の求めるもので
はない。
そこが私にはよくわからないところです。
一考さんはすぐに「すべて」と言う。「すべて」を捨て、「すべて」を疑うと言う。
「すべて」なんて言葉は発した瞬間に「すべて」を捉える立ち位置を作ってしまいます。
きっと、一考さんはその立ち位置さえもすぐに疑うのでしょう。動き続けるのでしょう。
でも、「すべて」と一まとめに扱うのは大雑把すぎ、楽すぎ、危険すぎます。

「一」に至るにはまだ早い。
すべて異なるまま、差異を明らかにしたままで、それを位置付ける価値体系をなくす。
いや、それは価値体系を一つも持たないということではなくて、無数の価値体系を同時に持つことによっ
て、どこにも帰属しない無意味なオブジェとしてすくいあげるということなのです。
フェルメールの絵のようにしらじらとした光の中で、くっきりと、あまりにくっきりとした輪郭を持つ
個物が並ぶ世界。

もう一つ、一考さんが振幅というその言葉、私はそれがよくわからなかったのです。
それは同じところに何度も立ち戻ることかと思ってしまいました。
でも、そうではないのですね。同じ道を辿って行きつ戻りつするのではない。
たとえ同じ道だとしても、歩く一歩は地をうがち、道は下へと向かうでしょう。
思考は螺旋を描いて下降し、地獄巡りがはじまるのです。
パラフレーズ、それもまた同じことを繰り返すことではない。
同じ地点からより明確に見ること。考えを自分になじませ使いやすくすること。新たに進むための道具に
すること。
言われきったこと、書かれきったこと、それはもはや目的ではなくて手段です。
私は足場を作りながらそちらに向かって進みます。今日はここまで。

いや、一考さんに「そちら」になんていないでしょうけれど。
あるいは、「ここ」にも「そこ」にもいるのでしょうけど。



投稿者: 二階堂奥歯    日時: 2001年10月31日 00:07 | 固定ページリンク





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