ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「つんつん。」 | | 次の記事「エロ先生」 »

一考 | つちのこ編集者の戯れ言

 奥歯さんへ、先日の哲学問答に感謝。

 「もともと人は好き嫌いだけで生きています。自らの感性や直感を正当化するために、理屈は後を追ってやってきます。対象が酒であれ、食物であれ、友であれ、すべては同じ筋道をたどります。理なくして、想いに形を与えることは叶いません。だからこそ、最も大切なものは思惟であり、思想なのです。思惟とは宛もなく立ち徘徊(もとお)ることであり、思想とは自らへの懐疑に他なりません」とは店の寡多録に記すところですが、この思惟を哲学に置き換えれば先日の話の通りが少しでもよくなりましょうか。そもそもフィロソフィーを哲学と訳したことからして面妖な話で、素直に叡智とするのが妥当ではなかったかと思われます。
 哲学とは行為であり、営みであり、運動なのは言うまでもなく、そのエネルギー源には対極としての概念、もしくは複数の概念が必要となります。ひとつの概念もしくは価値観が生まれた時、即座にそれを疑ってかかるのが人の叡智であり、思惟なのだと思います。繰り返しますが、ひとつの価値観が派生した時、それに対応する新たな価値観を自らの中に拵えないことには精神に振幅運動は始まりません。この価値観を歴史観と置き換えても意は同一です。それら精神の構造上の骨格を成すのが懐疑ではないのかと思うのです。他人を疑うというのは言葉の撞着です。懐疑は常に自己の深部めがけて穿たれていきます。私がポリシーとかアイデンティティーなどという言葉を忌み嫌うのも、自信など持ってよろしいのですか、もしくはひとつの立場に安住していてよろしいのですかとの疑問を自らに突きつけるのを常態としたいからです。
 社会の最小単位は夫婦であり、親子であり、家族です。でもその絆が、やがて町になり、地域になり、社会になり、国家になり、民族になり、宗教にも変化していきます。精神の帰属や同一性という魔物が排他性を育み、また単位としての矜持が、自信が民族の浄化を正当化し、人々を殺戮へと向かわせるのです。別のところで「若さから美貌、肉体から貞操、親子から兄弟、売れるものはすべて売りましょう。もちろん最初に売り払うのは愛人であり、恋人であり、連れ添いなのです。本当に無一文になった時には天皇陛下万歳を三唱して死ねばいいではありませんか」と著したのは、謂わば私流の弧絶の薦めなのです。弧絶としたのは他でもありません。孤独という受け身の甘酸っぱい感傷とは無縁の、能動としての参画としての孤独、即ち引くに引けない失意の果てに我とわが身を投じるしかなかった暗闇。そういった孤独を弧絶と呼びたいのです。そしてその弧絶こそが、精神の帰属を拒否し、自己同一性と闘うための唯一の武器になるのです。
 何時の時代でもそうなのですが、若者の中にはポリシーとかアイデンティティーが国家や民族や宗教とは結びつかず、大事なのは一重に私だけ、という考えが根強くあるのを識っています。そういう人はアイデンティティーは自己の内側にのみ向かうものと錯誤しています。なぜ錯誤というかについては好例が数多あります。かつてヒトラーは選挙で選ばれたのであり、わが邦において軍靴の跳梁を許し(許すというのは支持するに等しいのですが)たのはかかる無意識かつ無定見なマジョリティーだったのです。要はアイデンティティーを声高に唱える人々こそが多数派の構成要員なのだということです。
 一方で、若者を酔わせてやまない「選ばれた少数者のために」との標語があります。ゲッペルスが好んで用いたプロパガンダですが、昨今ではなりふりかまわぬ広告代理店や出版社の金看板と化しています。用いる側すなわち資本家は少数者かもしれませんが、踊らされた消費者がマジョリティー、要するに一般大衆でなければなんなのでしょうか。話を書物に限っても、書物は複製芸術であり、いかに限定を謳ったところでそれすらが逞しき商魂。よしんば購入者にマイノリティー意識という妄想を抱かせたとすれば、それは偽善でしかないのです。というようなことを書き綴っていると、どちらが妄想を抱いているのか、境界線が定かでなくなってきます。
 貴女は大学で哲学を専攻なさったという。私の学歴は中学校中退なので、哲学の通史や言葉の意味を学ぶ機会はなかったのです。言い訳は不本意なのですが、用語の選択に曖昧さが残るのも致し方ないのかもしれません。綻びを縫い、でたらめを取り繕うようにして、断片的な知識を糊と鋏でツギハギすることが、中学生時代の理由のない怒りと飢えを宥めるために必要でした。そして誰もが逢着する自家撞着、大方の人はそれを飼い慣らすことによって「人間性」に目覚めて行きます。しかし、それでは「情念とのクリンチ」は手付かずのままじゃないですか。矛盾をいかように飼育調教したところで、新たな壁が次々と立ち顕われるのは必定。「矛盾が矛盾、撞着が撞着でなくなるような至高点」も、私にとっては夢物語にしか思われず。されば、いっそ虚と実、偽と真の間にバイパスを拵えればどうかと、これは辻潤の著書から糸口を掻っ払いました。覚束無かった手綱さばきも、知らぬ間に馴染んできます。人間性という空虚な先入観を打ち壊したバイパスは、現況と至高点との間にすら有効でした。躍動と蠢き、飛翔と脈幅、すべての価値は倒壊し、他者と私は等価な存在となって行きました。他者が私の中を過ぎ行き、私が他者の中を通り過ぎる。いたるところで滲透し合う存在と存在。謂わば存在が伸縮自在なオブジェと化したようです。さらに、等価は無価値となって居候を決め込む始末。目の前にごろんと寝転がる無価値、すなわち虚無がもたらす風通しのよさが私には愛おしくなりました。
 私の為事に結論はありません。ただ、貴女との問答の中で概念の曖昧さをこっぴどく突かれました。対応の至らなさに畏れ入っております。でも、私にとっては久しぶりの快感、「身にしみそめし秋風の月」の心胸です。



投稿者: 一考    日時: 2001年10月30日 03:58 | 固定ページリンク





« 前の記事「つんつん。」 | | 次の記事「エロ先生」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る