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moonさんへ
二宮のポパイは結構なお店でよく行きました。同じ二宮にあったプーペ、確か中学生の頃の話です。こちらはピアニストの当麻さんに連れて行かれたのが最初で、私が月並みなウィスキーを注文したところ、「それはぼんが飲むようなお酒ではない」とグランシャンパーニュの35年ものを奨められました。初任給が5000円ほどの時代、原価で50万は下らないコニャックだったと思います。ムーンライトも同様で、宛われるのは常に化粧瓶に入ったコニャック、あのころはブランデー神話が生きていたんですね。どうやら、それが引き金になってウィスキー好きになったようです。
福原の家の向かいの寮というのは黒田荘というアパートで、オーナーは中村美容院、後年の割烹赤坂です。黒田荘をタミーが建物ごと借り切って寮として用いていました。
十数年前、いろんな雑誌で阪神間のことを書かされたのですが、父が生きていたので福原を描くのは躊躇われました。父にとって水商売とは、女郎屋、置屋、お茶屋、仕出屋のみでした。クラブやバーの類は気質さんが営む商売として、最後まで認めなかった。こだわりでもあったのですかねえ。飛鳥のママさんの母親が岩国で外人バーを営んでいたのですが、やはり、父とはうまくいかなかったようです。いずれにせよ、関係者の大半が亡くなられたので、福原と花隈についてはどこかで著すつもりです。共に伊藤博文が拓いた色街というのが引っ掛かりますが。
私を過激な共産主義者にしたのは父、すなわち福原なのですが、水上勉さん同様、著さねばならないことは山のようにあります。父が逝った時、一滴の涙も流さなかったのは表向きでして、自宅に辿り着き一人になってから、朝まで泣き崩れました。私も所詮は人の子ですかねえ。あれほど嫌っていた福原が、最近は懐かしく感じられる時があるのです。
「赤坂」の息子が後年、赤坂でショット・バーを始める、親父が生きていたら呆れたでしょうね。
秘密倶楽部は秘密が売りでして、ここに記すのは憚られます。あちらさんから早速クレームが付けられました。従って、メールで送りました。よろしく。
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