無力と喪失
(2007-11-29 15:54:43) by   


 「自分が無力である事、そして喪失感を学ぶ」と言ったとき、ではかつては力があり、喪失をもたらすところの所有があったのかと揚げ足のひとつも取りたくなる。「見るべきものを喪ったのか、それとも端から見るべきものなどなかったのか」と書いた理由がそこにある。否、これほどに曖昧な文言もあるまい。なぜなら、主語は略かれているものの、ここには確たる自意識がある。
 はなしを複雑にしたくないのでもとに戻る。「元々無力であって、今も亦無力である、なにかしら喪失感があって、今尚それは続いている」と書きなおした方が通りはよくなる。しかし、それではますます詩から遠離る。私は曖昧なら曖昧である、と断定形で文章を綴る癖がある。どうせ大したことは書かれないのだから対象を絞り込む。この場合の対象とは自分自身に他ならない。言い換えれば、考えの側面のみを捉えることになる。螺旋のような思惟の一断面なのだからますます持って恣意的にならざるを得ない。絞り込むことによって振れは小さくなり判断は甘くなるが、その分わかり易くなる。わかり易いのがよいこととは思わないが、読み解くに難渋させられるのは迷惑なときもある。もっとも、この難渋には二種類あって、表現の難解さがもたらすものと、書き手のおつむの風通しの悪さからくるものがある。後者は手の施しようがない。
 なにを言いたいかというと、詩歌と散文の違いを述べたまで。「振れは小さくな」ると書いたが、それを補って余りある力が詩歌にはある。なぜなら、詩歌はひとに類推を強要する。従って、思案を巡らすことなしに詩歌は読まれない。謂わば、読むための能力と感性が必要になる。この訓練は若ければ若いほど有効である。では散文は、となるが、こちらについては触れない。字面を追うだけの読者が多くて、このところ悲しみばかりが弥増す。
 思うに、ひとは変わらない。と言うよりは、変わらないでいようと務めるひとが多い。しかし、変えてはならないものなど、この世にあるのだろうか。世の中を変えるとは、自らをを変えることに他ならない。「自分が無力である事、そして喪失感を学ぶ」その無力を怒りに、喪失を悲しみに置換できないだろうか。のんちさんは若い。若ければこそ、その転換は易い。「怒りと悲しみ」それは書くという行為のおそらく唯一の元手であり、そして苗床である。


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