もうひとつのはがゆさ
(2007-11-27 01:48:57) by   


 「自在力についてはまた」と書いたが、ことさら書きたいとも思わない。ただ、秋、落雁、水といった透き徹った悲しみについて触れたかったまでである。
 文章を綴るとは自分のなかにあるものを吐露するまでで、次はなにを吐き出そうかと思案する。思案できるあいだは結構なのだが、早晩ひとは吐露すべきなにもないのに気付く。そこからではないだろうか、高遠さんとこで触れられていた「はがゆいやうな透明の抒情」がはじまるのは。
 「はがゆい」はじれったい、もどかしいとシノニムであって思うままにならなくてこころがいらだつの意。もっとも、「透明の」が加算されることによって、苛立ちや焦躁よりもさらに内省的な意味合いを持つ。従って、内省が内生であっても一向にかまわない。もっとも、それは私の解釈であって、本家の中井さんはルサンチマンのひとだった。怨嗟というよりも、怨恨や遺恨が強かった。そしてその怨恨は身近なひとへと向けられた。しかし、それについて書くつもりはない。

 ものはあれどもものはなし、庵はあれども庵なしという。吐露すべきなにものもないと書いたが、それは畢竟ずるに、さびやしおりや細みのようなものであって形を成すものではない。好き嫌いは別にして、そこに日本文学の特異さがある。去来抄に「さびは句の色なり。閑寂なる句をいふにあらず。仮令ば、老人の甲冑をたいし戦場に働き、錦繍をかざり御宴に侍りても、老の姿有がごとし」とあるが、その「句の色」こそが吐露の対象たりうると思う。去来によれば「老の姿」とでもなるのであろうか。
 なにもなければ、吐露すべきなにかを仕入れなければならない。仕入れ先は先人に、書物に求めるのが無難であり博く一般的である。そして仕入れ先は歳と共に変わってゆく。仕入れ先が変わるのではない、仕入れ先の「色」合いが変わるのである。繰り返すが、表層ではなく形式ではなく色合いである。
 屈折した剥きだしのこころではなく、ひとの色に恋をする、そのような消息を人のこころに恋をするという。面白い表現であって、すこぶる抽象的である。ヘンリー・ミラーの北回帰線にさびやしおりや細みを感ずると言ったら暴論になろうか。少なくとも、「はがゆいやうな透明の抒情」を私は見届ける。


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