ナオさんについて
(2007-11-19 14:48:35) by   


 渡辺ナオさんがカウンターを仕切ってくださったので、昨日は終日厨房へ籠る。厨房のはじめての活用だったが、カウンター嬢がいなければフードは無理だと確認するに終わった。やはりひとりで両方をこなすのは無理、一部のスモークとウィンナーか肉饅ぐらいが関の山だろう。
 ナオさんにですぺらを営業していただくのも一興、飜ってなべさんを私が取り仕切る。それでは店主が交代するだけで意味がない、どうもうまくない。なにかしらの解決策はないものか。
 土曜日には合鴨スモークの註文があった。はじめての依頼であり、他に客がなく、その心配もなかったので作る。「他店のスモークは食べられなくなった、やはり旨い」と言われて喜ぶ。以前と違って、原価で難儀させられる要もなく、しかるべき厚みで提供できるのが嬉しい。赤坂の鮨屋のネタのようなことは今後はしたくない。
 食器へのこだわりをナオさんから指摘される。わずか半年ですべて無くしたが、最初に用意した四十個の箸置きは備前の灰焼き、一箇三千円の品物だった。値打ちを知っての盗みなら納得がいくが、どうもそうではなさそうである。今回の猫の箸置きは百円、こちらの方が受けは良い。フードがはじまれば徐々に差し替えてゆくつもりだが、高価な食器は家で出番を待っている。
 ナベサンについてはかつて書いたので、ナオさんについて一言。襟を抜くのを去なすというが、年長者のしたり顔をあしらうときの軽みには色気すらある。三十路前半ながら、おそろしくきめの細かい人生を送っている。きめが細かいとは気配りを指し、気配りとは存在の相対化を言う。まるで安保の時代が今様の服をまとって顕れたようで、ある種の懐かしさを憶える。遅れて生れてきた人種のひとりで、時代を取り戻そうとして気を揉んでいる。「遅く生れた」ひとはみな生き急ぐ、その困しみは一種のはがゆさに色彩られている。彼女もまた、あきらめを嘆きの霧の道しるべとするのだろうか。


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