身も蓋も
(2007-11-02 15:00:12) by   


 ガスが開通、冷凍庫を購入すれば調理が可能になる。家の冷凍庫で眠っている食材を利用するには他に方法はない。一方、看板が高いのでどうしようかと倦ねている。看板なしでの営業は成り立ちがたい。冷凍庫か看板か、どちらを先にすべきか悩ましい限りである。
 週初めは帰宅後、ピザを焼かんとするもトースターにそのまま、風呂も沸騰させてしまった。朝のゴミ捨ても打棄つのまま、耄けたように眠る。拙宅が松山亭に似てくるのもご愛敬、もっともそうしたハチャメチャな生活には慣れている。否、慣れているのではなく、そうあらねばならぬと思う。生活に限らないが、ひとさまにお見せするために生きているのではない。自らが生きたいように生きる、結果は明白で諸事万端不義理ばかりが募る。掲示板にしてからが、結果としてひとが見るのであろうが、その功能を期待してのはなしではない。第一にひとが見ると言うが、何処のどなたがご覧になるのか皆目見当も付かない。見当が付くのはこの一週間に来てくださるごく僅かな方のみ。
 明石から高麗苑の店主高野さんが来店。明石ではやまちゃんが閉店、来住さんも今月の十七日で閉店する。来住のご主人は宝塚の老舗、割烹旅館若水へ移籍なさる。たしか若水は十年ほど前に「ホテル若水」と号を換えたように記憶する。
 ですぺらの西明石時代は彼等と共にあった。とにかくよく飲みよく語った。当地の「かさね」同様、私は割烹の主人とはすぐ親しくなる。プロの料理人は秘密を持たない、調法はべらべら喋るのが常である。喋ったからといって同じものは作られない。微妙な差違は舌が決める、その舌に自信があるからである。舌なら私にも自信がある。もっとも、私のそれは作る方ではなくて味わう側である。
 高野さんと赤坂の焼き肉屋へ赴く。焼き肉はやはり在日の文化であり、しかも関西のものと改めて識る。改めてと書いたのは、かつて店の裏メニューでギアラ、あかせん、てっちゃん等を置いた、理由は赤坂のそれに納得が行かなかったからである。直腸との連結部位のような良いてっちゃんなら卸しでグラム七百円、売値が千円を下ることはない。てっちゃんはてっちゃんであって、こてっちゃんではない。それが解らないひとに焼き肉を語る資格はない。
 赤坂の焼き肉はただただ不味い。鮨と同じで、過当競争がわざわいしている。安価で出すために関西なら使わない部位を用いる。鮨にせよ焼き肉にせよ、一人前一万円以下なら食さないに限る。まずイメージが狂う、第二に悔いを残す。悔いの残らない人生などないが、食べ物は人生ではない。金がなければ食さないまでのはなしであって、安物や贋物で間に合わせるような器用さは私にはない。この消息は酒にあっても同じである。
 今回入ったビルに同居する割烹は一人前二、三万円はする。さなきだに不味いもののみ多かりき日常に対する、これはひとつの識見である。雰囲気をのみ味わうならランチタイムに行けば良い。


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