逃散不発
(2007-10-15 14:40:36) by   


 書き込みが前後するが、そっぽを向いていたですぺらに見切りをつけ、二十日過ぎに逐電するつもりだった。そのために、十一日におっきーさんをはじめ、関係者との話し合いを持った。
 仕事命もしくは仕事が人生という方が世の中の大半を占める。それはそれで結構なはなしで、私がごとき穀潰しがどうのこうのと申し上げる筋合いのものではない。ただ、私はそういった世界に極力脊を向けてきたし、理解しようとする努力すら抛り投げてきた。従って、ダメならダメで諦めも速く覚悟も定まっている。
 それでなくとも、ひとつの仕事を長く続けるとその世界に知己が増える。知己が増えればそれだけ評価も出揃う。そして良きにつけ悪しきにつけ、評判はその道のプロを拵えてゆく。どうもそれが私には堪えられないのである。従って、女性が変わるたびに職を変え、住居も転々とした。もちろん、どこへ住んでいても一考であることに変わりはなく、神戸、松山、大阪、岐阜、京都、東京、明石と移ろいだが、行く先々で新たな知己ができる。そしてその友人同士が横の関わりを拡げてゆく。生島遼一や曽根元吉にはじまって、永田耕衣や多田智満子、種村季弘に至るまで、およそ五十名ほどの個として生きたひとと深く触れあってきた。この過程で、知己と知己とが知り合い近しくなるのを眺めるのは快感をもたらす。それらの心地よさが、おそらく私の財であり宝だと思う。
 私は出自からして裏社会である。従って、出版物も「個として生きたひと」のみを注意深く撰んできた。学会や文壇に属するような表舞台のひとの書物は二、三を除いて出版していない。その姿勢はこれからも変わらないし変わりようがない。評判を求め、権威権力を冀求するようなひととは交わりを持ちたくないのである。

 さて、前述の話し合いである。結論は西郷さんとおっきーさんに口説き落とされてしまった。ひとをしょんぼりさせるのはよろしくない。もう一度方針を切り換えてですぺらの営業に務めようと思うに至った。お二人に深甚の謝意を表したく思う。十一日の夜はひとりで盃を傾けること深更に及んだ、久しぶりの良い酒にうつつを抜かしたのである。ですぺらとはわが風の息であり夢裡であった。


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