「花のノートルダム」再読
(2009-05-22 22:11:49) by   


 君が風邪を引くとトドインフレだと云われた。通常、トドといえば成長したボラのことである。わたしの場合は海馬であって、鯔ではない。そしてインフルではなく、インフレだそうである。巷では海馬が風邪を引くと洛陽の紙価が下落するらしい、意は価値基準の崩壊にあるようだが。もっとも、現行のインフルエンザは年齢制限があるらしく、六十歳を過ぎると掛からないようである。
 それやこれやで、ここ二箇月ほどひどく落ち込んでいた。日々死ぬことばかりを考えていた。「散骨」や「虚しさ」にはそう云った心情が表されている。昨日、鈴木創士さんの「花のノートルダム」を読んでいて少し元気が出てきた。孤絶が売りの小説を読んで元気もないものだが、ドストエフスキーやベールィ、ゴンブロヴィッチやベケットなどを読むとこころの病のようなものが恢復する。他人も同じなのだと気づかされるからであろう。
 考えてみれば書物の効用はそこにこそある。言い換えれば、疾んでいないひとは本など繙かないほうがよいに決まっている。健康なひとが「トドインフレ」に罹ることだって起こりうるのである。
 むかし、澁澤が「エドワルダ夫人」についてのなかでサルトルの引用だったと思うが「ヘーゲルのように弁証法的な展開を認めようとしないバタイユは、ただ現実世界に、テーゼとアンチテーゼとの悲劇的な葛藤のみを見る」と書いていたのを思い起こした。一部を捉えてどうのこうのはナンセンスだが、これでは曲解を通り越して浅ましさすら覚える。浅ましいのがサルトルなのか澁澤なのかは敢えて問わない。
 「花のノートルダム」のあとがきは三島に次いでバタイユを痛烈に糾弾する。「さらに「悪」さえも裏切ることによってそれをじっと見据える冷徹な目は、たとえ汚辱の悲しみを湛えているように見えようとも、すでにしてコミュニカシオンの埒外にある・・・聖性はジュネにとってはつねにより孤独なものであり、世界からの孤絶、後ろ向きにすべての視線を消し去り、美しいフェダインの少年の日に焼けた顔にこぼれる微笑みのように、あるいは聖体顕示台の後光のように放射されるその否定である」
 戦慄であり、これは既に一篇の詩である。ジャン・ジュネについてここまで書き込まれた文章をわたしは知らない。ジュネか創士か、創士かジュネか、ふたりが溶け合い、ひとつの個を目指して境界線が消えてゆく。あとがきとはこうでなくてはならない。


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