辻潤について
(2009-04-17 21:27:44) by   


 おれはまじめといじめと唐変木とわからずやとおせつかいとインチキとコンチキとモンツキとシルコハットとケーザルヒゲがあまりすかんぴんばれおんとろぢいのあべろくろのろぢいのスカンポみたいな野郎はだいきらひでも向ふが好きなら仕方がないがまんして置くことにきめてるムツシユウ!
 心にもなきことは云ひたくなきものかなホトトギス おまへさんちよいとバカにおしでないよと投げ島田 汐見橋あさもやに生のどよみかな 観音は自在におはす鰻かな かなかなが鳴けば肌へに岩清水の次郎長の大股小股なり平によく似たと云はれやにさがり松の葉越の日の出かな ざっとエトセトラ。

 ご存じ辻潤の「のつどる・ぬうどる」からの抜粋だが、身辺雑記が彼にかかるとこのように化ける。個性だけの作品と云えなくもないが、個性もここまで思い切って屈折すると来歴を通り越して強烈な可視光線となる。絶望的な失意を前に、山本六三とふたりしてお腹を抱えて笑い転げたのを思い出す。辻潤読みの醍醐味はこういうところにある。講談社から文庫で「ですぺら」が上梓されたが、この種のエッセイがことごとく略かれているのは残念である。
 「のつどる・ぬうどる」は「ぼうふら以前(ぼうふらは漢字である)」(昭森社1936年刊)に収録されたが、初出は萩原朔太郎が主宰した個人雑誌「生理」である。「生理」全五号が冬至社から復刻されたのは昭和三十九年二月五日、わたしの十七歳の誕生日だった。あとにもさきにも誕生日を指折り数えたのはあの時だけだった。あれからわたしは歳を取るのを抛りだした。それが「のつどる・ぬうどる」と題された変哲な文学に対する唯一の讃辞であり私淑であった。


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