ピストの香りとエールの苦み

 

日本のビール

 日本ビールのルーツはドイツのメルツェンです。1842年、チェコのピルゼンで誕生したピルスナーが近代ビール醸造法の原点とされていますが、その普及伝搬によって、日本のビールの主流もメルツェンからピルスナーへと移行しました。共にシャープなホップとフレッシュな喉ごしが特徴のビールです。やがて、日本は敗戦を迎えます。進駐軍のGIが持ち込んだのがクアーズ、バドワイザー、ハイネケンといったアメリカンタイプ。トウモロコシや米などの雑穀を副原料に用い、極端に麦香を押さえた、弱ホップ、低アルコールのビールです。米を主食とする日本にとって米を原料に使えるアメリカンがピルスナーにとって替わるのに時間はかかりませんでした。現在日本で作られている主力ビールはすべてアメリカンです。しかも、日本では生ビールを飲むのにサーバーが用いられます。樽全体を冷やすのであれば、温度調整が可能です。しかし、サーバーでは冷やし過ぎ(3〜5度)になります。冷えすぎたビールは泡立ちが悪く、炭酸ガスの圧入が必要になります。一方、冷蔵庫の普及によって、家庭で飲むビールまでが5度前後に冷やされます。それら冷えすぎのビールが日本人に夏の飲み物との錯覚を抱かせたのだと思います。需要者の理解のなさと供給側の愛情のなさが悪循環を生み、ビールが本来ある姿を歪めているのです。グラスを冷凍庫で冷やして提供するような業務店やそれを当たり前として受容する飲み手、また、それら思い違いを正すのでなく、誤ったニーズに対応し迎合するようなビールを作るメーカーなど、すべてが間違っています。シェア争いに汲々とする間に舶来ビールの種類とその楽しみ方を心得、他社にない独創的かつ個性的な商品でもって我々を啓蒙すべきなのは、プロであるメーカーの人々の責務だと思います。

ナチュラルとプロセス

 ビールはチーズの分類と同じく、ナチュラルとプロセスに大きく二分されます。さらに、プロセスビールはドラフトとラガーに分かれます。ドラフトはミクロフィルターによって酵母を除去し、ラガーは熱処理によって酵母を殺します。共に無酵母の短期熟成タイプ。わが国ではドラフトを生ビールと称しますが、酵母の除去方法が異なるだけで、品質内容もしくは醗酵法においてドラフトとラガーは何ら変わるところはありません。

 酵母の話が出たついでに、醗酵について一言。ビールの醗酵には自然醗酵、上面醗酵、下面醗酵の三種があります。自然醗酵は酵母菌を用いずに自然に醗酵させたビールで、ベルギーのランビックがこれに相当。上面醗酵は比較的高温(20度前後)で醗酵させたビールで、ベルギーやオランダのホワイト、ブラウン、ピスト、トラピストなどを指します。下面醗酵は低温(5度)で醗酵させたビールで、アメリカン、ピルスナー、ミュンヘン、ポック、メルツェン、スモーク、スパイスをはじめ、国産ビールのほとんどがこの製法で作られています。また、特にアルコール度数の高いベルギービールは2次醗酵・ダブル(6〜7度)と3次醗酵・トリプル(7〜9度)に区別されます。ビールに限らず、大方の酒は作られた時の温度で飲むのが一番おいしいといわれます。上面醗酵が一般的なヨーロッパで、ビールが常温(12〜20度)でじっくり嗜まれるのは当然のことなのです。

 ナチュラルビールは無酵母ビール(ブルワリー・コンディション)と酵母入りビール(ボトル・コンディション)に二分されます。無酵母ビールは非熱処理で、濾過方式は軟式濾過。イギリスやアイルランドで飲まれるブラウンカラー、高アルコールのリアルドラフト、通称エールがこれに当たります。エールとは本来、イギリスで醸造されるナチュラルビールの名称でした。

 酵母入りビールは「にごりビール」とも称されます。酵母を濾さないため、白濁しているのがその理由です。春先に味わわれる日本の生酒、にごり酒を想い起して頂ければお分かりでしょう。ベルギーのほか、オランダ、イギリス、ドイツなどで醸造されています。中・長期の熟成期間を要しますが、なかには25年という熟成期間を経たものもあります。いずれにせよ、本物の生といえるのはナチュラルビール、それも生酵母の入ったビールだけといっても過言ではないのです。

エール

 グレートブリテンのビールを理解するには品種でなく、醗酵法で分類する方が分かりやすいと思います。それは上面醗酵のエールと下面醗酵のラガーです。今日ではエールの定義が曖昧になり、ペール・エール(ピルスナータイプ)やビター・エール(苦みが特徴のビール)など多種類のエールが作られています。今一つ、忘れられないのが黒ビールの存在。イギリスで最初に作られた黒ビールはポーターです。1800年代にフェーヴァーシャム・ポーター・クラブの殿方たちが好んで飲んだところから、ポーターと名付けられました。その他にもスタウトがあり、ピルスナーとスタウトのブレンディング、ビターとスタウトとのブレンディングなど、さまざまな黒ビールが作られています。味の均一化が否めない日本の地ビールと異なり、イギリスでは企業ベースで94社の醸造所があり、銘柄に至っては千を軽く越えます。元祖ビール王国の名に恥じない厚みと質を、今なお維持しているのです。エールの特徴はなんと言ってもクリーミーな泡立ちにあります。炭酸ガスはやや弱く、がぶ飲みには向きませんが、ホップの効いたフルーティな香りとローストされたモルトの甘みと苦み、そして酸味との絶妙のバランスには筆舌に尽くし難いものがあります。ビールに苦みと芳香をつけるのはホップの役目ですが、そのホップの使用量がイギリスと日本ではあまりにも異なります。ホップをふんだんに用いたビールがかくまで苦く、ストロングな飲料であるということを知って頂きたいのです。さらに、チーク材のマッシュ樽が使用されているのも大きな違いです。ちなみに、わが国ではステンレス製のタンクが用いられます。余談ですが、ワインにも同じことがいえます。最近、チリや南アフリカのワインが高い評価を受けているのは、その樽詰めに理由の一端があるのです。例えば、フランスの大手ワインメーカーでは醸造・貯蔵の過程はステンレスのタンクで処理されます。ワインの生命ともいうべき、色と芳香において、ステンレスがオーク樽に劣るのは必定。大量生産という企業の論理が、癖や特性をなくした無味無臭の酒を世の中に垂れ流しているのです。悪質なのは、それら当たりの柔らかい水っぽい酒が端麗辛口という美名のもとに販売されていることです。ビールやワインに留まらず、日本酒から焼酎、洋酒に至るまで、過度の活性脱臭と着香がもたらした昨今の端麗ブーム、辛口ブームがいかに浅はかなものであるか、賢明な御仁にはお解り頂けると思います。

ビールは嗜好品

 ビールの生産量は日本酒を追い越して、今や国民酒としての地位を得ました。風呂上がりの一気飲みから付き合いや宴会におけるがぶ飲みに至るまで、どうも日本人はビールを多量に飲みすぎるようです。多量に飲むには極端に冷やしたアメリカンが適しているのかも知れません。でも、ビールにはさまざまな味のビール、個性豊かなビールがあるということに留意して頂きたいのです。ベルギーは日本の九州ほどの国土に1000万の人口を懐く小さな国ですが、130のメーカーと540ものビール醸造所があります。そのうち95パーセント以上が、いわゆるピルスナータイプ誕生以前の手作り製法を頑なに守る小さな醸造所です。そこでは少なくとも800を下回らない銘柄のビールが作られています。酒は嗜好品であり、栄養摂取を目的とする飲物ではありません。茶・コーヒー・タバコの類と同様に、個々の品種が持つ癖や特性、すなわち香味や刺激を楽しみ愛でるためのものです。画一化されたわが国のビールとは異なり、ベルギービールには複雑な味わいに馥郁たる香りと新鮮な喉ごしが加味されています。もちろん、ごく僅かですが、アメリカンやピルスナーも作られています。でも、それらを飲んでベルギービールの味を了解したと早合点しないで頂きたいのです。これがビールだというような基準値は存在しませんし、ビールとはこういうものである、との安易な類推も許されません。グラスを変えるたびに趣を違え好みが偏る、言い換えれば、ベルギービールにあっては一品種ごとに本質そのものが異なるのです。ディレッタントの醍醐味は好奇心を満たすことにあります、かかる趣味者にとってベルギービールは誂え向きの飲料といえます。

トラピストとピスト

 トラピストとはその名のとおり、修道院で醸造される手作りビールの総称。ずっしりとした麦香と濃い舌触りを特徴とします。上面醗酵されたビールは、瓶詰め直前に加えられる新鮮な酵母の働きで、瓶内で熟成されて豊醇な香りと厚みのあるボディが備わって来るのです。自然の「生」を味わうために、殺菌はおろか、濾過もしませんし、炭酸ガスの圧入や安定剤の添加も一切行われていません。瓶内の酵母の働きを能くするため、貯蔵は自然温度でなされます。瓶詰め後、1〜2年で熟成ピークに達し、賞味期限は3〜5年の長期に及びます。数あるベルギービールの中で、トラピストの名を使えるのはオルヴァル、ウエストマール、ロシュフォール、ウエストフレテレン、シメイの5銘柄のみ。それにオランダのトラップを加えた6銘柄がトラピストのすべてです。ちなみにピストとはトラピストの醸造法を受け継いだビールのことで、アビービールとも称されます。伝統的な手法にとどまらず、独自のモルティングやブレンディング、低温・高温の両熟成などによって、トラピストを凌ぐビールが数多く作られています。

 ベルギーとイギリスのビールを強調しましたが、これには理由があります。昔からワインの発達した地域ではビールは育たなかったのです。ベルギーを含むベネルックス、イギリスやアイルランド、そしてスカンディナヴィアの気候は葡萄より麦の栽培に適した土地柄だったのです。それ故、ヨーロッパ北西部の人々はビールに活路を見出しました。ビールは寒冷地において発達を遂げたのです。ワインやシャンパンと見紛うような香味とこくを持つビール、赤ワインを彷彿させるブラウンビール、強烈な酸味を醸すランビックの古酒など、オリジナルなテイストを誇るビールが多いのも、これで頷けると思います。ベルギーのカフェを訪れると、店内には銘柄の異なるビールがずらりと並んでいて、ワインのようにリストが備えられています。いずれにせよ、2002年にはビールの関税が撤廃されます。これからはビールもチョイスを楽しむ時代がやってくるのです。

                                               

                   ですぺら主人 一考
 

  

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