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      <title>ですぺら掲示板2.0</title>
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      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>ですぺらモルト会</title>
         <description>11月22日（土曜日）の19時から新装開店後、十一度目のですぺらモルト会を催します。
会費は12900円。
ウィスキーのメニューは以下のごとし。詳しい解説は当日お渡しします。
今回はクライヌリッシュとブローラのボトルを楽しみます。

ですぺらモルト会（クライヌリッシュとブローラを飲む）

01　クライヌリッシュ14年※
　46度のディスティラリー・ボトル。
02　クライヌリッシュ &apos;89（マクギボン）
　プロヴァナンスの一本。11年もの、43度。
03　クライヌリッシュ &apos;90（ヴィンテージ・モルト）
　クーパーズ・チョイスの一本。ポート・フィニッシュの12年もの、46度。
04　クライヌリッシュ &apos;82（ロンバード）
　ジュエル・オブ・ハイランドの一本。16年もの、50度のカスク・ストレングス。
05　クライヌリッシュ &apos;89（アデルフィ）
　12年もの、57.2度のカスク・ストレングスにしてシングル・カスク。
06　クライヌリッシュ &apos;90（キングスバリー）
　バルデスピノ社のコリセオ・アモンティリャード・シェリー・カスクを用いた10年もの、54.2度のカスク・ストレングス。
07　クライヌリッシュ &apos;83（シグナトリー）
　オーク樽による15年もの、43度のフルボディ。限定715本のシングル・カスク。
08　クライヌリッシュ &apos;91（ユナイテッド・ディスティラーズ）※
　ザ・ディスティラーズ・エディションの一本。ダーク・オロロソ・セコシェリー・フィニッシュの15年もの、60.1度度。
09　ブローラ &apos;82（イアン・マクロード）
　チーフテンズの一本。シェリー・バットの19年もの、46度。2樽、1332本のリミテッド・エディション。
10　ブローラ &apos;75（ダグラス・マクギボン）
　プロヴァナンスの一本。25年もの、43度、限定263本のシングル・カスク。01年のボトリング。
11　ブローラ &apos;81（ダグラス・レイン）
　オールド・モルト・カスクの一本。18年もの、50度のプリファード・ストレングス、限定263本のシングル・カスク。
12　ブローラ &apos;77（レア・モルト）※
　ユナイテッド・ディスティラーズ社のレア・モルト・セレクションの一本。21年もの、56.9度のカスク・ストレングス。

ですぺら 
東京都港区赤坂3-9-15　第2クワムラビル3F 
03-3584-4566 </description>
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         <pubDate>Mon, 17 Nov 2008 23:23:28 +0900</pubDate>
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         <title>迷惑カキコ</title>
         <description>　久しぶりの休みなのでオートバイの修理に専念。修理を済ませて走ってみると後輪がひどく滑る、前輪の空気圧が低いのが理由である。タイヤを替えたばかりで、どうして空気圧が減るのか、理由はチューブの虫でしかない。ついでにスクーターをチェック、こちらの後輪は1.2気圧、燃費が悪い筈です。黴の生えた虫を洗って押し込んで応急処置。茶毒蛾の次は生ゴムのムシに襲われた塩梅。それやこれやで、この間掲示板はほったらかし、気が付くと「パナマからの手紙」で埋められていました。おっきーさん、済みません。</description>
         <link>http://www.despera.com/bbs2/2008/11/post_443.html</link>
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         <pubDate>Mon, 17 Nov 2008 16:34:08 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>訃報</title>
         <description>　早朝、浪速書林の梶原正弘さんが昨夜亡くなったとご子息の武文さんから連絡があった。今日が通夜で、葬儀は明日十三日十二時から、大阪府池田市新町一の十六の弘誓寺（ぐぜいじ）会館にて。一年に及ぶ闘病生活の果てだそうである。七夕市や明治古典会など大市がある度に上京、必ずですぺらへ立ち寄っていただいた。
　（続きは明日）
　本が好きだったので黒木書店、浪速書林、田村書店と家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。神戸在のころは梶原さんと泥酔、福島の旧宅で何度もご厄介になった。旧宅の入り口には金網を張った一画があって、梶原さんのお子さんが蛙を飼っていた。梶原さんはいくら酔おうが、蛙の餌だけは忘れなかった。蛙は生き餌しか食べない、蠅か蟋蟀である。小さく切った蒲鉾をピンセットでつまんで根気よく鼻先で動かしたり、見えないほど細い針金をつけて動かしたりしても、口に含んだときに動かなければ吐きだしてしまう。活け造り専門の、蛙は美食家なのである。
　「ごねんなあ、ちょっと待っててや」梶原さんは生き餌のはいったビニール袋を大事そうに抱えて戻ってくる。「これなあ、私の人生なんや」「古本屋をやめてペットショップにしたら」「あほ云うたらあかん」そんなときの梶原さんの目はあたたかだった。
　小さい小さい梶原さん、きっと死んでさらに小さく、消え入るように小さくなったと思う、私の父がそうだったように。十代半ばの頃の私を知るのは山本六三、黒木正男、梶原正弘のお三方のみ。そして三人とも鬼籍に入られた、と同時に私の十代も消え去った。存在は記憶のなかにしかない。そして記憶が跡切れたとき、存在したことも消え去る。

　十月の末に山崎剛太郎さんの「夏の遺言」と題する詩集が水声社から上梓された。巻頭に昭和十四年に松下博によって撮影された写真が二葉掲げられている。一葉には信濃追分の径を肩を寄せ合って散策する小山正孝、野村英夫、山崎剛太郎、中村真一郎の後ろ姿が写っている。山崎さんのキャプションがなければ個人を特定するのは難しい。途の向こうへと消え去ってゆく影、顔はなく、存在はなく、そこに在るのは蜉蝣のように立ちのぼる記憶だけ。かかる写真を選択した山崎さんの詩精神とタイトルの「夏の遺言」とのコレスポンドンス、霜の音が聞こえてくるような冴えわたった記憶である。この写真を前にして私は本文を繙くことができなくなった。読むのはいい、ただ泣き出してしまうに違いない。そんな記憶を梶原さんと私も共有していたのである。</description>
         <link>http://www.despera.com/bbs2/2008/11/post_432.html</link>
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         <pubDate>Wed, 12 Nov 2008 20:45:41 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>値崩れ</title>
         <description>　ですぺらの客には株をなさっている方が多い。そこで素人意見を一言。
　現在発表されている企業業績は七月から九月の四半期開示（決算時期によって区々）である。今回の金融危機はベアー・スターンズが端緒なのだが、広く知られるようになったのはリーマン・ブラザーズの破綻で、九月十五日のことである。そのリーマンのクレジット・デフォルト・スワップ（CDS）の清算価値が入札の結果8.625%に決定したと国際スワップ・デリバティブ協会（ISDA）が発表したのが十月十日。推計ではリーマンのCDSの契約残高（想定元本）は約4000億ドル、CDSを引き受けた金融機関などがかぶる損失は91.375%（約3655億ドル）となる。この率でいくと、取引残高62.2兆ドルのうち、56.8兆ドルが吹き飛ぶことになる。新たに破綻する金融機関が出る可能性があるとの市場関係者の危惧は決して理由のないことではない。
　CDSはともかく、実体経済への影響が数値になって顕れるのは次の四半期開示（来年一月末）であって、その次の四半期ではさらに大変なことになりそうである。週刊誌その他で底値感が謳われ、株購入の薦めが囂しいのは某政党、某新聞社の陰謀ではないかと私は猜疑っている。
　ですぺらはモルト・ウィスキーの専門店である。このところの蒸留所やボトラーのあまりもの強気の値付けに業を煮やしている。先日も極力安いボトルを七本買って十二万五千円の請求である。金融危機ならぬ経済危機が引き金になって株同様値崩れが起きるのを心待ちにしている。</description>
         <link>http://www.despera.com/bbs2/2008/11/post_431.html</link>
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         <pubDate>Wed, 12 Nov 2008 19:19:07 +0900</pubDate>
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         <title>自意識</title>
         <description>　詰らないと思いつつ、少しでもましなところを探して拾い読みすべきか、それとも思想のなさから抛り出すべきか、書物を繙く度に溜息が出る。最近では根気がなくなって投げ出すケースが増えてきた。結論を先に申せば、書物に対する好奇心が急速に失せつつある。
　好奇心が失せつつあると書けば間違いになる。好奇心を抱かせるような内容のある書物がめっきり減ってきたのである。俳句では永田耕衣、三橋敏雄、高柳重信が逝いて興味の持ちようがなくなってしまった。短歌では葛原妙子、塚本邦雄、寺山修司、春日井建、山中智恵子、安永蕗子以降は俳句同様、興味が持たれなくなってしまった。
　記紀歌謡末期、万葉集初期の作品に成立した短歌と比して詩は歴史がはるかに古い。古いとは申せ、江戸漢詩と新体詩との断絶、ならびに現代詩との隔絶は昭和三十年代の前衛短歌運動にはじまった現代短歌と同じく、過去と現在とのあいだに横たわる脈絡を探せと云われても困惑するのみ。この消息は散文の世界においても似たり寄ったりである。

　詳細は端折るが、先日地方に住む詩人が来られた。年格好は私と似ているのだが、旺盛な常識と権威主義には呆れるばかり。作品と人品骨柄のあいだにいささかの乖離があってとの註釈が付けられていたが、そこのところが既に怪しい。いかな人品骨柄であろうとも、作品はそれを忠実に擬える。良きにつけ悪しきにつけ、作品と人柄のあいだに乖離などあろう筈がない。それが読み解かれなければ、作家はおろか、読み手にすらなり得ない。もっとも不快を感じたのは「私は書き手であって、他の一般大衆とは異なる」のひとことである。当掲示板で触れ続けてきた選民意識の権化のような御仁だったと記しておこうか。
　地方に住む詩人は地方に在ることへの恨みを刺激のなさ乃至は評価のなさと結びつける。評価のなさは発表誌の確保に苦しむことになる、と。しかし、と思う。現世の評価などいかほどのものであろうか。現代の詩人はそのようないかがわしいものを求めて詩を著すのであろうか。結社や同人に属し、関連行事や出版記念会で顔を繋ぎ、当たり障りのない挨拶を繰り返すのが自らの価値を定め高めることだとでも思っているのだろうか。また件の詩人は「言葉は進歩する」「詩は勝負だ」とも云う。「詩のボクシング」があるのだから詩を格闘技の一種と看做すひとがいてなんの不思議もないのだが、勝ち負けの判定の基準をどこに設けるのであろうか。そして、その結果をいさぎよく受け容れるようなひとがいるのだろうか。
　「アナロジーの魔の渦中にぽいと抛り出されるのが詩の宿命、もっとも、類推があってこそ、詩は書き手を離れて自立し、読み手の頭上を翔けていく」とかつて川津さんに宛てて書いた。詩はつねにストレイシープ（迷子）である。生前にひとりの読者を得ることがいかに至難か、それをもっともよく知るのは「シジン」であろう。「シジン」が好んで用いる文言に「超高速で発射される言葉」がある。それを超高速で受け取る読み手などそんじょそこらに居るわけがない。もし可能だとするなら、その読者は書き手の趣味や生き方の根本的な更新を余儀なくさせる。すぐれた読者は作者が予想だにしなかった新たな領域を作品にもたらす。言い換えれば、作品を作品たらしめるのは最後は読者でしかないと、世の詩人はこのことに心致さねばならない。

　愛惜措く能わざる詩人のひとりに相澤啓三がいる。彼は発表機関誌はなにも持たない、単行本を出すべき版元も持たない、そして誰も評さないがゆえに無名である。況や現代詩文庫にも入っていない。もっとも、現代詩文庫のような有相無相と一緒くたにされるのは本人が嫌がるだろうが。しかし、私はわが国でもっとも偉大な詩人のひとりと思っている。明晰な頭脳の持ち主と思っている。前述したように「書物に対する好奇心が急速に失せつつある」なかで、相澤さんの著書は大切にしている。おそらく、読み手が私ひとりになっても、彼の詩に対する私の評価は揺らがない。読者は一般大衆のなかにしか存在しない、そして読者は限られている。しかし、その少数者と大衆は齟齬をきたさない。格差と差別は同心円を描く。政治であれ経済であれ文学であれ、格差の解決は論理的帰着として必ずやナショナリズムに行き着く。齟齬をきたさないのではなく、齟齬をきたしてはならないのである。個は大衆の投影であって、大衆は個の鏡である。私はその教えを十五の歳にボードレールから学んだ。肉体という概念を介して生涯そのことと闘ったのがマラルメでなかったか。</description>
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         <pubDate>Mon, 10 Nov 2008 05:16:20 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>蕎麦</title>
         <description>　新蕎麦の季節になった。二〇〇五年四月十七日に急逝した三日月の外山時男さんを想い起こす。
　このところ、木村さんとおっきーさんが蕎麦造りに執心なさっている。おっきーさんの目がどんぐり眼になってなおのこと外山さんを思い出させる。
　そばを揚げたスナックとそば茶にはじまって、そばの芽のサラダ、そばの芽のジュース、そばの芽のてんぷら、そばの実の浅漬、そば豆腐、そばの実雑炊、そば団子、そば切り、最後にデザートとしてそばの実の入ったシャーベットかゼリー、もしくはクレープ（ガレット）を付ける。
　以上が一般的な蕎麦コースである。私が子供のころはデザートを端折り、団子をデザート替わりに配ったものが、讃岐、神鍋、高田などで食べられた。確か、神鍋では松葉肉や鴨の炭火焼き、やまめの塩焼きなども添えられていたように記憶する。
　山形へでも蕎麦を食べに行こうかと、こちらは思っているだけである。</description>
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         <pubDate>Mon, 10 Nov 2008 04:09:32 +0900</pubDate>
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         <title>パシフィック・カレドニアンのことなど</title>
         <description>　パシフィック・カレドニアンとはインポーター兼ボトラーの名前である。詳細は存じあげないが、故マシュー・D・フォレスト氏のオリジナルボトルを扱っていた。フォレスト氏が経営なさっていたインポーターなのかもしれない。ヘヴィリー・ピートのアイル・オブ・ジュラ、99年蒸留、3年もの、60.7度のカスク・ストレングス、447本のリミテッド・エディションをかつて蔵していた。
　他にもジュラのカスク違い、同じくジュラの75年蒸留、バーボン・バレルの25年もの、60.9度。オールド・フェッターケアンの21年もの、62.3度。タムナヴーリンの66年蒸留、クリーム・シェリー・カスクの35年もの、5２.6度、472本。スプリングバンクの68年蒸留、30年もの、49.2度、271本のリミテッド・エディション。ベン・ウィヴィス72年蒸留、バーボン・カスクの27年もの、45.9度、187本のリミテッド・エディション。同じくベン・ウィヴィス72年蒸留、バーボン・カスクの27年もの、43.1度、146本のリミテッド・エディションなどが頒されたのを記憶している。73年蒸留のハイランドパークもあったと思う。新しくはジュラのスーパー・スティションの初の輸入元だった。
　ベン・ウィヴィスはハイランド地方の北部インバーゴードン蒸溜所の熟成庫内で隠れるように眠っていた最後の二樽をカスク・ストレングスでボトリング。2000年にリリースされた。キンクレイス、グレンフラグラー、レディーバーンと共に幻のモルト・ウィスキーと騒がれている。幻であることは認めるが、香味の方はさっぱり、金を出して飲むような代物ではない。
　ここで触れたいのは前述したジュラのカスク違いである。99年蒸留、02年ボトリング、3年もの、58.8度のカスク・ストレングス、705本のリミテッド・エディションがそれで、前者はブルーのラベルで後者はクリーム色のラベルである。記憶が正しければ、クリーム色のラベルは3年のベリーヘビーピートに1970年代の原酒を加えたものだった。いずれにせよ、ジュラ蒸留所がヘヴィリー・ピーテッド・モルトを造ったのは99年が最初で、フェノール値40ppmのポート・エレンのモルトを用いている。
　今回購入したボトルには前回同様、ジュラ蒸留所のマスターブレンダーのリチャード・パタースンと同蒸留所長マイクル・ヘッズ両氏のサインが入っている。ディスティラリー・コンディションだが、従来のエディションと異なり強烈にピートを焚いている。レダイグ15年ものを想起させる強いピート香、パワフルでスモーキーなフィニッシュを持つ。今では、ディスティラリー・ボトルでヘヴィリー・ピーテッドが頒されているが、本品が最初に市場に出回ったヘヴィリー・ピーテッドである。

追記
　フォレスト氏の急逝が2005年5月、それ以降はウィスク・イーが「ジュラ1999・ヘビーピーテッド・マシューフォレスト」として扱っている。</description>
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         <pubDate>Mon, 03 Nov 2008 06:30:17 +0900</pubDate>
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         <title>客裡</title>
         <description>　去年の十月「友よ、いずこ」を書いた。それを覚えているひとがいて、一昨日メールを頂戴した。プレオープンの一週間前、よきはなし相手に恵まれ、こよなく穏やかな宵だった。滄海桑田の世にあって疏簾委委斜のごとく、ひっそりと酒を酌み交わすのは素直にうれしい。
　消尽、焼尽、消失、寂滅、寂黙、寂歴等々、話し合ったことは「消え入ること」のみ。かつて辻潤がペール・ラシェーズでなにを思い、なにを自らと語らったのか。ガンベッタから下る坂道に生う雑草に、彼は明日あるであろう命を託した。
　あなたを煩わせたひとは鮮やかに立ち直ったようである。書くことで経験するようにしているとのメッセージが届いた。躄がひとり、身の回りに増えたような。そう、膝行にならなければ文学は分からない。日常は繰り返す悔い、肉体はツール、あれもこれも決して悲しみに昇華することはない。
　何ごとによらず、顧みないひとがいる。きし方は夢のなかに定かならず、紐を解かないのは「さきだたぬ悔い悲しきは流るる水のかへりこぬ」ことを知っているから。まことに悲しいのは流れる水、繰り返される悔いが悲しいわけではない。
　「日本語を捨て、フランス語で考え、文章を著せば、そうすれば、自分が消えるのではないかと……」素敵滅法な覚悟かと拝察。「文学とは消え入ることに命をかけること」自分の言葉なれば間違いはなかろうと思うが、さらに委身曲附（しゃがむとまがり）を付け加えておきたく思う。</description>
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         <pubDate>Mon, 03 Nov 2008 04:09:51 +0900</pubDate>
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         <title>自転車操業</title>
         <description>　「金融工学の虚業」で書きたかったのはCDSのことではない。CDSが問題なのは事実だが、アメリカは次世代の金融システムを必ず構築する。私の云いたかったことは、とうの昔に原資がゼロになっている郵貯の民営化であり、年金であり、後期高齢者医療制度を薦めた小泉元首相の素朴な手腕である。デフォルメされたプリミティブアートを観るような感慨があった。
　彼は派閥の解体と相俟って自民党をぶっ壊し、他方、自民党自体を取り付け騒ぎから救ったのである。民営化してしまったものを国が保証する理由はどこにもない、郵政民営化に反対するような能転気な政治家にはお引き取りいただくしかない。ここにはあまりにも単純明快な論理がある。
　年金や医療にしても目先の二、三年がうまく行きさえすれば後は景気の回復が解決するだろう、取り敢えずは消費税で補っておけばよい。大方の政治家はそのような浅薄な考えを抱いている。単純な論理と浅薄な考えに優劣は付けがたい。今こそ魑魅魍魎の登場が待たれるのではあるまいか。
　小泉元首相が「ぶっ壊し」てから、自民党の下野が定まった。その間になりたい人は全員が総理大臣になるということになったらしい。かくて安倍、福田、麻生とレームダック内閣の系譜はつづく。自民党内で麻生おろしが既にはじまっている。次は小池百合子だそうである。もっとも麻生で選挙は戦えない、それを考慮すれば順当な人選というべきか。
　野に下るのが定まったと書いたが、本当は定まっていない。1993年の細川内閣、94年の羽田内閣につづく96年の第41回衆院選での新進党の敗北でわが国の大衆に私は失望した。明年六月か九月の総選挙で自民党はフェニックスのごとく蘇るかもしれない。概念としての大衆の聡明さは認めるが、日本のそれには困惑させられる。二大政党制の意味内容をなにひとつ理解していない。この種の大衆は糞食らえである。</description>
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         <pubDate>Thu, 30 Oct 2008 23:08:55 +0900</pubDate>
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         <title>自動二輪の免許</title>
         <description>　滝沢弘幸君が自動二輪の免許を取得した。取得だと簡単だが、しゅうとくと書くと修得、拾得、収得、習得など意味合いが異なってくる。私ならさしずめ宿徳が免許を拾得したとなるのだが、このような冗談は適切でない。
　彼は拙宅の近隣の教習所へ通っていたので、いつでも見に行けたのだが、最後の卒業検定まで捨て置いた。理由は彼が二十歳なので、最短コースであっても、なんら問題は生じないと思っていたからである。だが、卒業検定はさすがに気になったので見学に行った。
　三十八人中、大型が三名と中型が六名失格、一名がスラロームでパイロンと接触、他はいずれもが一本橋と波状路での脱輪である。彼は中型なので波状路は免除される。従って、苦手課題は一本橋であろう。実は、落下、足付きさえしなければ受かるということを伝えに行ったのである。規定時間は七秒以上だが、例えそれを切っても一秒あたりマイナス五点で済む、それと比して脱輪はその場で失格、ニーグリップの不良はマイナス十点である。
　彼の走行になんら問題はなく、一本橋での所要時間は十秒、大型でも受かる時間だった。車線変更が速すぎたようだが、マイナス特五点というのがあって、違反が一回までなら減点なし、二回以上重ねると遡っての減点となる。従って、彼は満点で通過したはずである。それを確認して私は帰宅した。
　ただ、先達として気になったことがある。彼の着座位置が後方に過ぎる。それが理由で両腕を張っている。大型だとマイナス十点になる。教習所のバイクはステップは前方へ、ハンドル位置は高くかつ後方へ設定している筈である。傾斜ポジションすなわち前傾姿勢が格好いいと思っているのだろうが、油蝉がバイクに止まっているように見える。レーサーレプリカのつもりでネイキッドに乗るのは困りものである。注意しなくては。
　受かったと戻ってきた彼を連れて鮨を買ってくる。今日はですぺらを休み、拙宅のバイクの名義変更と免許証の更新に嬬恋村へ帰った。東京で乗るのだが、嬬恋ナンバーがいいと彼は云う。彼の無邪気なアイデンティティをいささか羨ましく思った。</description>
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         <pubDate>Mon, 27 Oct 2008 23:23:19 +0900</pubDate>
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         <title>グレンスコシア・ヘヴィリーピーテッド</title>
         <description>　前項で「操業を再開した1999年7月、ヘヴィリー・ピーテッド・モルトを仕込み、まずリンブルグ・ウイスキー・フェアーで6年ものをボトリング、次いで2007年4月にディスティラリー・ボトルの販売をはじめた」と書いた。そのリンブルグで発売されたグレン・スコシア99年が手に入った。ゴードン＆マクファイルのカスク・ストレングスと差し替えることにした。双方を開栓しない理由は棚がモルト・ウィスキーで一杯だからである。会費は9700円に訂正させていただく。

　田中屋へは滝沢弘幸君を運転手として連れて行った。佐々木幹郎さんが馳走になったアードベッグを私も飲みたくなったからである。他では62年と74年のマッカラン、幹郎さんの云う「埃を飲むような香り」を堪能した。昔のウィスキーはアルコール度数が低い、低いものしか売られていなかった。しかし、低いが故にシェリー香のコントロールが効いている。アーリー・ランテッドが40度を守っているように、昔のウィスキーも香り、味、フィニッシュの三拍子が揃っていて美味い。私は特に74年が気に入った。何時も飲むマッカランとは異なり、ノックドゥー、グレンロッシー、ロイヤル・ロッホナガーのような植物の味がする。カスク由来だと思うのだが、繊細なところが生きている。これもアルコール度数が46度に抑えられているからである。このところ、カスク・ストレングスを多く飲んでいたのだが、やはりウィスキーの醍醐味は加水タイプにあると再認識させられた。</description>
         <link>http://www.despera.com/bbs2/2008/10/post_423.html</link>
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         <pubDate>Sat, 25 Oct 2008 08:02:35 +0900</pubDate>
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         <title>ラガヴーリン新入荷</title>
         <description>　昨夕、スリーリバーからフレンド・オブ・ザ・クラシック・モルトのラガヴーリンが入荷した。95年蒸留、08年ボトリング、12年もの、48.0度、ファースト・フィル・シェリーバットの熟成品である。香味については書かない、旨いに決まっているからでる。
　それにしても、年が明ければ1ユーロ100円代にまで円高になる。160円からの推移だからウィスキーはずんと安くなる。現時点での購入は控えた方がよろしいかと思う。株価と円相場は連繋すると経済アナリストはいうが、私はそうは思わない。よしんば株価が持ち直すことがあっても円高は容易に解消しない。もっとも、それがいいことだとは思っていないが。</description>
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         <pubDate>Sat, 25 Oct 2008 07:41:55 +0900</pubDate>
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         <title>恋情</title>
         <description>　ひとから誉められるのは大好きである。とりわけあまねさんからの讃辞にはこころが動かされる。日頃から、存在は新陳代謝と書いている。そして彼は私のまわりで最年少である。老いては子ならぬ個に従えである。私は原則、ひとには頭を垂れないが、個として生きるひとは別格である。個にとって年少も年長も問題にならない。永田耕衣と接するのと同じ緊張感をもってあまねさんと付き合わねばならない。
　「懐かしい」という言葉を私は好まない、私が用いれば不用意ということになる。ただ、彼はその言葉に万感の思いを託している。文中の「・・・僕にはそれも出来かねます」と相俟って、彼がシャイな青年であることを物語っている。老いとは悲しいものである、シャイがシャイでなくなり、「差異もなき夢の気がかり」にしかならなくなる。
　「関係の難しさ、隔たりの深さ」と彼は書く、その懸隔は歳に比例して弥増して行く。年齢のへだたりはともかく、考え方のへだたりはどうにもならない。多くのひとはそれを趣味の相違と解釈する。相違という択一的図式で世の中が片づくと思うのは安易に過ぎる。世の中が常に対等だとは限らないからである。あまねさんは「隔たりの深さ」に畏敬の念を抱いている。懼れを抱くのは素晴らしいことである。思索の苗床は畏怖を除いてなにもない。畏怖は自己解体を余儀なくさせる、そして自己解体とは他者に惚れることに他ならない。間違いなく、土屋さんもあなたと同種の解体を繰り返していた。私には痛いほどよくわかる。あなたの「恋情」は決して身勝手なものでなく、相手に関係ないことではなかったと。</description>
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         <pubDate>Sat, 25 Oct 2008 05:09:59 +0900</pubDate>
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         <title>アイデア商品</title>
         <description>　何処の駅か忘れましたが、新幹線で同じ様式のトイレに入ったことがございます。防水工事の大変さに気を揉みつつも、アイデアとしては一級品と思ったのですが、どうやら先人がいらしたようです。それにしても読ませますね。「わづかにせり上がつた足型様のものふたつ。おづおづと片足づつ」で小生は吹き出してしまいました。福地桜痴「文章論」の「達意ノ文章ハ決シテ奇僻ノ文字ヲ用ヒ、高尚ノ語句ヲ用フルモノノ為シ得ル所ニアラズシテ、己レガ口ニ述ベント欲スルモノヲ筆ニテ、己レガ知ル所ノ文字ヲ書キ下ダスニアル事ヲ知ルニ足ルベシ」を想起。文章はこうでなくては、との思いを新たに致しました。
　襟裳岬の百人浜オートキャンプ場にはジェットガンが備えてあって驚きました。それだけ糞尿を撒き散らす方が多いと云うことになりましょうか。かつてのですぺらでも週一回はそれで泣かされました。もっとも、掃除をしていたのは女人の方ですが。
　ところで、今日田中屋さんでアブサンの素と称するものを頂戴してきました。直径13ミリ、長さ50ミリのカプセルにエッセンスが入っているのですが、96度のウオッカに入れるとたちどころに96度のアブサンに早変わりするという逸品です。当然、非合法なのですが、妙なものを造るひとがいるものだと感心するやら呆れかえるやら。話の種に取り置きます。傷むものではなし、序での折にでも。</description>
         <link>http://www.despera.com/bbs2/2008/10/post_420.html</link>
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         <pubDate>Fri, 24 Oct 2008 20:20:28 +0900</pubDate>
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         <title>毛繕い</title>
         <description>「エアブラシ有り難く拝読」しました。一考さんのいう親分の元に初めて手伝いに行った日、僕が命じられたのは庭掃除と食器磨きでした。渡されたピカールと布で必死に銀食器を磨きあげたのを記憶しています。研磨剤が強力であればあるほど研磨する側も身を削られます。一考さんも用意してあるのは道具だけではないと感じました。
確かに僕は友達が欲しかったのかもしれません。そして土屋さんにその望みを抱いていたようです。底にあるのは身勝手な恋情。相手には関係ない事でしょう。一考さんと横須賀さんのような例は稀だと思います。「ひとがたまらなく好き、だから人を拒絶する」という文言は一考さんにもそのまま当て嵌まります（誰でもないご自身についてかかれた言葉ですもの）。一考さんは誰も拒絶していないですし、だからこそ、その失意は大きいのだと思います。それを間近で見て来た土屋さんも同じような失意を抱いているように感じます。その失意に僕は懐かしさを感じました。友達という言葉を口にするのはたやすいですが、いざその関係を持続するのはどれほどのエネルギーを必要とするのでしょうか。前のですぺらの時に、ですぺらの「ファン」を自称する人達がですぺらにしてきた事、言っている事を見ていた時に、関係の難しさ、隔たりの深さに気付きました。
友達が欲しければ「がふりよれば」よいのですが、僕にはそれも出来かねます。
以前一考さんは「残日を指折り数えて」と「俳諧の軽みのような笑い」という二編のエッセイを書かれました。ともにですぺら掲示板への書き込みを母体としたものでしたが、当時僕には「俳諧の軽みのような笑い」のほうが納得出来ませんでした。いうなればやっつけ仕事に見えたのです。「残日を指折り数えて」に比べてという事ですが。
今では、あの短さにどうしようもない一考さんの悲しさを感じます。
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         <link>http://www.despera.com/bbs2/2008/10/post_419.html</link>
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         <pubDate>Fri, 24 Oct 2008 15:55:48 +0900</pubDate>
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