詩人が云うには八十篇を超える詩ができあがったと、そこから二十一篇を選び、久しぶりに詩集を拵えるとか。題して「明日」、もっか目次構成に彼は呻吟している。
これがプロの為事である。今回のような精神に動揺を来さざるを得ない異変に出会い、その動揺、こころの揺らぎを如何にして揺らぎのまま定着させるのか。大きな事件事故であればこそ、白紙の原稿を前にして刻苦しなければならない。ときとして描かれるのかとの迷いすら生じる。
迷い迷っての八十余篇、それをさらに四分の一にまで刮げる。そこまで持してはじめて情念が立ち上ってくる。自分流の詩を著すとは自分流の言葉と立ち会うことである。言葉との出逢い、それは新たな精神との逢着である。逢着ではなく、新しい精神を生み出すと云うに等しい。
昨今あまりにも安直に詩集が生まれているのでないだろうか。作品が二十篇できたからと云ってそのまま本を設えるのはいかがなものか。編輯との場が欠落しているし、詩集など生涯に何冊も持てるものではない。良い作品が誕生してはじめて本にすることを考えるべきでないだろうか。詩集を存在証明にしてはならない、生涯に一冊あれば結構と思う。